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                          研究の軌跡
                    

 <phase 1>

  各国財政は一見したところ「一国だけの封鎖的体系」であるかにみえ、またアカデミックな研究でもそうした扱いをされてきたが、実際には財政の国際化現象が認められる。私が最初に手がけた研究は、同現象を受けて各国財政間に直接・間接の連関が形作られている点に注目して、その実情の究明や関連理論の吟味をおこなうことだった。とくに、国際財政関係の発展が「財政自主権」をめぐる熾烈な争いを内包しており、それが意味するのは各国の国際的地位を左右する「国際競争手段の争奪戦」ではないのか、との問題提起を大胆になした。
  大学院の修士論文(「国際的関連から見たイギリス戦時財政:1936−45年」1961年1月)を起点としたこの仕事は、私が32歳の時に『国際財政論』(有斐閣、1976年)を公刊するにいたって一段落したが、各国財政の相互関連性や財政自主権の重要性に留意すべきだという基本的な発想は、強い信念となって、今日までずっと私の中で生き続けている。
 なお、『国際財政論』によって後に京都大学から経済学博士の学位を授与された。


<phase 2>

 上記の課題に取り組んでいる際に「国際公共財の負担分担」に関する議論を扱ったのをきっかけに、私の関心は、ごく自然に2つの問題領域に向かうところとなった。
 1つは、当時、急浮上中だった公共財理論を中心とする公共経済学の特徴やイデオロギー性を明確にしなければという思いであり、これはやがて『公共経済学批判』(中央経済社,1980年)となって結実した。同書では、公共経済学それ自体の論理構造を問題にしただけでなく、公共経済学にシビル・ミニマム論、「小さな政府」論などの他種の議論と柔軟に結合して種々の財政合理化政策を導出する性格が備わっていることへの注意も喚起した。
 私も予感していたところだが、以後ますます公共経済学が公共部門の経済理論として地歩を固めるのと反比例して、かつて重厚な存在感を誇った財政学という学問体系の影は薄れる一途をたどってきた。それが何を意味するかの洞察も含めて、私は今なお公共経済学の発展の足取りと現実的役割を問い続ける意識を失ってはいない。


<phase 3>

 もう1つはと言うと、現実に国際公共財の代表格である国際安全保障のコスト再配分が国際問題化していたので、私はその考察を入り口に、軍事経済論の分野に分け入ることになった。
 1982年春からの1年間のイギリス留学は、私にとって、軍事戦略、軍事生産、軍事援助等に関する欧米の専門研究の分厚い蓄積に感嘆し、それらを読み漁るまたとない機会だった。そのおかげにほかならないが、軍事化の経済的動因を探り、軍拡経済の世界的構図を描き出し、その矛盾の検証に努め、軍縮への反転の経済的必然性に説き及んだ『軍拡経済の構図』(有斐閣,1984年)を完成させることができた。
 関連して述べれば、戦後40年にわたって続いた東西冷戦の終結は、単に東側の自己崩壊によるものではなく、西側内部における軍縮の経済的必然性の高まりもあいまった複合的な結果だった、と考えられる。


<phase 4>

 実は、私は軍事経済研究の集約を志した時点から、グローバルな軍拡を現出させている国際的な連関のあり方を洗う著書に加えて、独自に日本を扱うものを別建てで用意するつもりをしていた。後者は『日本の軍拡経済』(青木書店,1987年)となって実現したが、そこでは、軍事の経済的負担に悩むアメリカのバードンシェアリング要求に譲歩を重ねる形で、しかし同時に軍事化をつながる国内での経済的圧力の作用も受けつつ、日本が日米防衛協力の多面的な推進を中心とした軍拡に向かったいきさつやその問題点を見定めることに重点を置いた。
 同書での考察は、東西冷戦の終結とともに主要国の経済軍事化の程度は軒並み低下をきたしたのに、日本だけは例外的に継続的な軍拡の道を歩んできたというその後の推移の理解にも、それなりに資するところがあろう。


<phase 5>

 日本の軍拡の場合には、防衛摩擦を現出させながら強硬にバードンシェアリングを主導したアメリカの意図が色濃く投影されたために、それ自体が日米「経済・技術戦争」の場としての意味合いをおびていた。そうした両国間の防衛摩擦と経済摩擦の深部での結びつきを確認した上で、私は、摩擦と協調の複雑な絡み合いを包含する日米経済関係の分析に研究の比重を移した。
 周知のように、1950年代の繊維摩擦に始まった日米経済摩擦は、80年代前半にアメリカでのレーガノミックスの実践に伴って世界的な経常収支不均衡が顕在化したもとで、危機的様相を呈するにいたった。その経緯を踏まえ、対外不均衡の是正を目指してプラザ合意を皮切りに展開された先進国間マクロ政策協調ならびに日米間での政策協調のさらなる深化の実情究明へと進んだ『日米経済摩擦と政策協調』(有斐閣,1991年)は、当時台頭しつつあった政策協調を合理化する諸理論の吟味にも力を入れた結果、「政策協調の虚実」を検証する書ともなった。


<phase 6>

  1992年には、ミノルタカメラ、セガ・エンタープライゼズ等の日本企業が米国企業・発明家から仕掛けられたに大型特許紛争に敗れ多大の損失をこうむる、といった事件が連続的に起きた。それに先立って、私は日米摩擦の全貌をとらえるには重大化の兆しがみえる知的所有権紛争の分析を抜きにできないと考えて、まだ法学者の専管領域であるかの観があった知的所有権研究に手をそめていたが、ミノルタ事件等によって日本中に激震が走るのを目の当たりにして、まさしく経済学の出番到来だと痛感した。
 なお、米国企業の知的所有権攻勢は、凋落著しい自国ハイテク産業の再建をはかろうとする米国政府の知的所有権保護強化政策と呼応しあう形で、推進された。『日米ハイテク摩擦と知的所有権』(有斐閣,1994年)は、こうした米国官民一体の対日攻勢の原因と実態、さらにその攻勢によって促された日米間や世界的レベルでの知的所有権制度のハーモナイゼーションの内実を浮き彫りにすることを主眼とした。


<phase 7>

 上記の諸領域に継続的な関心を払ったのは当然だが、新たな分野への挑戦ということでは、私は過去の研究全体と密接な関係にある「国際政治経済学」の理論体系に強い興味をおぼえ、内外論壇のサーベイを試みた。戦後、国際関係論の大勢をいちはやく制したリアリズムの行き詰まりを背景に、70年代になって本格化した国際政治経済学(IPE)の隆盛は、主として政治学者たちによってもたらされた。覇権安定論、覇権循環論、相互依存論などが、しのぎを削りあいながら割拠し、やがてポスト冷戦の世界秩序形成に多大の影響を与えるようになったのだが、その活気ある光景に魅了されたのだった。
 ただ、論壇模様を観察する中で、私は、政治学者と経済学者とでは対象を見るアングルや重点の置き所におのずと差異があることを、そして経済学サイドからもIPEの実りある発展に寄与する必要があることを、強く意識せずにはいられなくなった。そこで、とくに国際公共財や政策協調の扱いには経済学者としての進言が不可欠だと思いをこめて、『国際政治経済学とは何か』(青木書店,1998年)を公刊することになった。


<phase 8> 

 
国際政治経済学の理論的検討に当たっている過程で改めて自覚したのが、今日の世界政治・経済構造をより具体的に詳察する必要だった。そのキーポイントをなす事象ということで、1990年代にアメリカ経済が再活性化を遂げて世界経済における地位と影響力を高めた経緯、ならびにその後の推移に関する分析に力を傾けるようになった。
 この課題については、「1990年代米国における歴史的な株高とその周辺事情」(『KIER』0204、2002年6月)、「米国『20世紀末景気』を支えたメカニズムとその限界」(『ESP』第366号、2002年10月)などの論文を出している。「憂愁の10年」だった80年代に90年代の「奇跡の経済復活」を可能にし、かつその性格を決する諸条件が築かれた経緯の究明も、「1980年代米国経済の回顧 (1)〜(3)」(『KIER』0403-0405、2004年6-12月)によって一通り済ませている。90年代にはアメリカが従来とは質的に異なる「ニューエコノミー」段階に入ったとの論議が盛んになされたが、「ニューエコノミーの虚実」(関下稔・坂井昭夫編著『アメリカ経済の変貌』同文舘、2000年)や「『ニューエコノミー論』考」(『KIER』0102、2001年11月)で、実態分析にもとづいてニューエコノミー論の真偽を判定する作業もおこなった。さらに、米国ニューエコノミーの破綻に伴う「双子の赤字」の再来とその世界的インパクトについても、「『双子の赤字』の再来を考える」(『KIER』0602、2007年1月)を発表した。


<phase > 

 2007年3月に京都大学の定年退職を迎えた時点で、研究稼業から全面的に引退することにした。介護問題や私自身の病気療養のため、アカデミックな研究を続けるのは至難の業だと自認したからだった。しかし、体調の回復とともに、密やかな経済ウォッチャーとして「趣味の学習」に手を染め、やがて趣味が高じて、現実的制約の枠内で多少なりとも研究らしきものに携われればとの思いに駆られるようになった(この間の経緯は「たそがれの心象風景」)。

 実際には環境条件の急変のために幾度も作業の長期中断を余儀なくされ、意欲を燃やしたサブプライム問題関連の連載講座も間延びして打ち切る形になってしまった。とはいえ、閉鎖的な日常にあって社会的交流を図り、時に退屈を紛らわせる方途として、「生涯現役」の学究でありたい、との願望はかえって強まってきた感がある。できるだけ生活実感に近い領域にウイングを広げたいという気持ちも働き、さしあたりの習作ながら「“無縁社会”考」(2012年3月)を発表するに至った。


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